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原子論

原子論

目次





1 古代ギリシャの原子論
2 イスラームの原子論
3 西欧近代の原子論
4 現代の自然科学における原子論の後退、他の説明体系
5 文献
6 脚注・出典

6.1 脚注
6.2 出典


7 外部リンク


古代ギリシャの原子論



古代ギリシアでは、(師弟関係にある)レウキッポス、デモクリトス、エピクロスらが、不可分の粒子である原子が物質を構成する最小単位であるという原子論を唱えた。[注釈 1]
古代ギリシャの原子論は、広く人々に受け入れられたとは言い難く、その後2000年ほどの間、大半の人々からは忘れ去られた考え方となっていた。

イスラームの原子論


イスラーム理論神学(kalam)では、一部の例外を除き、存在論の基礎を原子論においている、とされる。
イスラームの原子論では(西洋の原子論のように世界を機械論的に説明しようとはしておらず)、世界に生成性(muhdath)があり、世界を生成させているのは神であり、神が世界を直接支配している、と説明している。
ただし、その説明のしかたには様々なタイプがあり、アシュリー派は、偶有性の持続を一切認めず、全ての原子の結合や分離、生成、変化は神の創造行為と結び付けられている、と説明するのに対し、ムータジラ派は例外的にいくらか偶有性が持続するとすることで、人間の行為の選択可能性や、自然界の秩序を認めた。
イスラームの原子論の起源については、古代ギリシャ起源説、インド起源説、独立の発生だという説などがあり、はっきりとしたことはわかっていない。

西欧近代の原子論


デカルトなどは、"原子"などという概念を採用した場合、それがなぜ不可分なのかという問いに答えることは不可能と判断し、粒子はすべて分割可能だとした(原子論の否定)。
かれらの論が近代原子論の源流とされている。
例えば、エルンスト・マッハやオストヴァルトなども、実証主義の立場から、"原子"なるものは観測不能であることなどを理由に"原子"なるものが実在するという原子論には反対し、エネルギー論を主張していた。
そして、原子論の考え方に基づいて熱現象を試みに計算してみたものなどを論文類で発表しはじめた若者ボルツマンと激しい論争を繰り広げた。
この論争に関しては、アインシュタインの1905年の論文によるブラウン運動に関する理論(仮説)の提出、および1909年のペランによる実験的検証(左記アインシュタインの理論の検証を含む研究)により、ただの理屈や理論ではなく何らかの粒子が存在すると認知されることによって一旦決着がついた。

現代の自然科学における原子論の後退、他の説明体系


皮肉なことに、Atom「原子」という言葉がようやく科学的なものとして用いられ始めたころには、原義の「分割不可能な最小単位」どおりのものではなくなっていたのである。
さらに「原子核の内部構造として「陽子」と「中性子」が存在する」と考えられるようになり、さらにAtomという概念からは遠のいた。
さらに、その後のさまざまな研究により、その陽子や中性子も「分割不可能」ではなく「内部構造(下部構造)を持つ」とされるようになった。
また、古代原子論や近代の原子論のように「ある大きさを持つ粒子」が物質の基本単位になっている、とする考え方とは異なった、「大きさを持たない点」によって物質が成立している、とする考え方も生まれた。
また、プランクは粒子説による困難を回避するために、空間の側に最小単位があるとする考え方(プランク長)を発表した。








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